私が初めて海外に出たのは2004年。もう15年前になります。その時は約1年、アイルランドに滞在しました。最初こそホームシックになってきつかったですが、その後「海外での生活」に取りつかれ、以後各国を転々とし、約10年ほど前からはカナダに在住しております。


アイルランド以降の国々で私が見た「Diversity」。それは現在メディア等で使われている言葉とはちょっと意味が違った気がするんですよね。

Diversity NOV022019 01
(www.augusta.eduサイトより。)

Diversityって、多様性ってことだと思います。それは男女、老若、人種、言語、宗教、様々なものがそこには含まれます。そして現在使われているDiversityって言葉って、こういう「違いを全て受け止める」っていう意味合いが強い気がするんです。もっと言えば、”強制的に”全員が全員を受け入れるべき」っていう考え方。


でも私が海外で見たDiversityって、「互いに互いを尊重した上で認め合うこと」なんです。例えばそれこそ13-14年前、当時私はキプロスっていう国で働いていました。このキプロス共和国、悲惨な歴史もあり、現在トルコ側の北キプロス・トルコ共和国と、前述のキプロス共和国に分断されており、北キプロスはトルコ系、キプロス共和国はギリシャ系となっているんです。詳しい政治的対立は置いといて、そこで私はギリシャ系の友達と北キプロスに旅行に出かけ、本来いがみ合っているトルコ系とギリシャ系の人たちがお互いに肩を抱き合ってお酒を飲んでいる場面に出くわしたんです。


その光景は決して「強制」されたものではなく、心の底からお互いを「尊敬しあう」行為から出てきたもの。あの場面は今でも覚えています。海岸でちょっとしたパーティーをした時でした。


私はこれこそがDiversityと言う意味が本来持つものだと思うんです。


翻って現在の世界的潮流では、Diversityとは前述した通り、強制性の強いもののような感じがするんです。もっと言えば、「多数派が一方的に少数派に対して忖度する」行為 = Diversityと捉えている向きもあると思います。例えばアメリカの前政権であるオバマさん、ドイツのメルケルさんなんかがそういう風に見えます。彼・彼女らの行動が現在どういう結果を引き起こしているでしょうか?


また、この思想を逆手に取る「少数派」も。逆手に取るというか、勘違いしているというか。例えば、ずーっと前に当ブログでもご紹介した、カナダの少女サッカーチームにおいて、ヒジャブを被った女の子のゲーム参加を拒否したケース。これって「差別だ!」ってなってましたけど、サッカーって体同士のぶつかり合いもあるし、ヘディングもあります。そういった競技で頭に何か身に着けるっていうのは安全性の面でも公平性の面でも問題だと思うんですよね。


でもこの問題、「少数派の意見を多数派は受け入れるべき。それがDiversity」っていう風に誘導されていました。


今のDiversityははっきり言って、少数派が都合よく利用している言葉遊びだと思うんです。結果それが対立を深めるだけになっている気がします。特に自称リベラルと言う人たち・政党は、無条件に一方的に少数派の意見を至高のものとして行動している気がするんですよね。彼らが言う「我々」という言葉には決して多数派は含まれず、彼ら自身と彼らがサポートする「少数派」のみ。


世界は無理して「理想」を追うんではなく、ちゃんと現実を見つめて、でも一歩ずつ本当の意味でのDiversityを達成するようにしていく必要があるのではないでしょうか?


現在のカナダ、アメリカおよび日本とその周辺を見てみる本当にそう思います・・・。







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